DIE努力
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困難に負けず自分と未来を信じるのが忍耐
独りよがりに自分の我に執着するのが我慢
なんだとさ。
俺は苦労や努力なんかするべきじゃないって考えなんだけどさ、その考えが確立されたのはさんまさんや糸井重里さんの考えも混じってるんだよね
「努力は必ず報われる」論争に明石家さんま参戦 「そんなこと思う人はダメですね、間違い」 : J-CASTニュース
こんだけ努力してるのに何でってなると腹が立つやろ
と。
こういう努力の仕方は忍耐か我慢か?
自分が正しいと思ってるので我慢でしょう。自分の今やっている練習は正しい、努力は正しい、なのになぜ、という。
練習自体はいいことだし、続けた方がいいと思う。でもそれはさんまさんの言う通り「好きだからやってる」レベルにした方がいい。そこを越えると闇堕ちする。
努力すれば夢は叶う→叶っていない現在の自分→原因は自分の努力不足。努力原理主義を抜けられなかった人は、こんな自分を許せなくて何かを呪って生きていく。
という為末大さんの同意見。自分が正しいと思い上がることで間違っているのは他人や環境だ、と呪うようになる。
一般的には努力だと思われないけれども、
自分にとっては努力している時間というのが
宮本さんのなかにあるんだと思うんですよ。
ひょっとしたら宮本さん自身も気づいてないけど、
ぼくなんかからすると、たいへんなことをしているぞ、
というような時間が。
これを読んで考えた。俺もそういうことがある。俺だって努力してないわけじゃない。でもそれを人に証明するというのは難しい。昇華させなければ他人にはわからない。でも、自分を成長させるためにわざわざ人の保証をもらわなければならないのか?という考えにつながった。
どうにも努力原理主義が幅を利かせているせいで、大多数=正しいみたいな雰囲気ができるんだよ。大多数が全員間違っていることだってある。雰囲気に押されて中立に近い人間が傾くからだ。大多数が周りにいれば感覚が麻痺することだってある。大多数に攻撃されて負けてしまうことだってある。
俺たちはそれに屈してはならない!
俺の知り合いにも努力して苦しんでる人がいるんだけどさ、あれもそうだよ。いっっっっっっっっっつも我慢してっけどさ、我慢の先にあるのは更なる我慢しかないんだよ。なんにもない。死ぬまでそうしてんじゃねーのって思うぜ、あれは。
まあ最終的な結論としては糸井さんの引用文がかなり参考になったんだけど「なぜ人に努力を認められなければならないのか」というところだ。
なんでわざわざ赤の他人の評価をもらわなきゃなんねーんだよ。どうでもいいだろほっとけやって思うもんだよ。
俺たちの人生はそんなくだらない考えに縛られてはいけない。